低賃金、月収20万円(年収240万円)、スタートアップ企業の労働は、この世の地獄。『なんJ,海外の反応』
月収20万円、年収にしてたったの240万円。その額面を見て、胸にどれほどの絶望が広がるか、労働社会に一歩足を踏み入れた者なら誰しも想像に難くない。この金額は、もはや生活費ではなく“生存費”と呼ぶべきである。東京近郊でワンルームに暮らせば、家賃で手取りの半分が消える。食費を削り、交際費を諦め、医療も予防も先送りし、何ひとつ贅沢を許されず、息をすることすら贅沢と感じさせられる。それが「スタートアップという希望の名を借りた絶望の牢獄」に従事する若者たちの現実だ。
この惨状は偶然ではなく、意図された構造である。スタートアップ業界の多くは、資本よりも夢、待遇よりも情熱、報酬よりも“やりがい”という言葉で人を縛る。そこには制度としての保障が存在しない。社会保険の手続きは後手に回され、残業代は「成長の対価」として踏み倒され、ボーナスの代わりに「会社の将来性」が語られる。この欺瞞の温床が、20代の命を摩耗させ、疲弊させ、ついには潰す。そして潰れても、会社は責任を取らない。なぜならスタートアップとは「誰かの夢」であり、その誰かとは多くの場合、創業者ただ一人だからだ。
なんJではこうした若者の悲鳴が幾度となくスレッドを炎上させてきた。「年収240万のくせに社畜精神植え付けられてて草」「社長が毎日高級寿司で、こっちは白米に塩やぞ」「なんでおれらが投資家の夢のために餓死せなあかんねん」――これらの投稿は単なる愚痴ではなく、現在の日本社会が抱える“歪み”そのものだ。そして、海外の反応でも共感の声は広がっている。「ジャパンは先進国で最も若者を搾取している国の一つだ」「この待遇で我慢するのは信じられない。私たちなら即ストライキ」「奴隷制が残ってるのか?」というコメントがRedditやYouTubeでも飛び交っている。
研究者の視点からすれば、これは労働の本質を問う根源的な問題である。本来、労働は生活を支える手段であり、個人の尊厳を保つための根幹的な行為だ。しかしスタートアップにおける「やりがい搾取」は、その根幹を破壊し、労働の尊厳を“幻想の名のもとに剥奪する”。若手社員は最初の数年を「自分を試す時期」として受け入れようとするが、気づいたときには心も体も疲弊し、自尊心を削られた状態で社会の底辺に取り残される。これは単なる過労ではなく“構造的暴力”であり、“労働という名を借りた搾取”だ。
さらに問題なのは、この状況に対する社会的な無理解と黙認である。「若いうちは修行が必要」「経験が財産になる」などという言葉が、まるで魔法のように使われる。しかし修行には終わりがあり、経験は正当な報酬と引き換えに初めて意味を持つ。月収20万円で5年働いても、そこに残るのは“潰れた心”と“空の通帳”だけだ。スタートアップが悪なのではない。だが、「夢」と「搾取」を履き違えた組織が跳梁跋扈している現状を看過すれば、若者の未来は焼け野原になる。
この国の労働に“希望”を取り戻すには、「安さは美徳」という思想の打破が必要だ。安く働くことは、誰かの夢を支えているように見えて、実のところ“支配されること”に他ならない。月収20万円は、もはや“若者の挑戦”ではない。それは、“社会の無責任”が産んだ最も卑劣な幻想の成れの果てである。
スタートアップで月収20万円、年収240万円という現実に晒されている者たちは、もはや「社会の資本」などではない。むしろ、夢という言葉の下に安価に使い潰される“消耗品”に過ぎない。この惨状を多くの若者が見抜き始めているにもかかわらず、なぜ状況は変わらないのか?その理由は、根深い“日本型勤労美徳信仰”の呪縛にある。
かつての高度経済成長期において、我が国は“滅私奉公”という名のもとに世界を驚かせる経済的奇跡を成し遂げた。だがその神話はとっくに瓦解しているにもかかわらず、いまだに多くの経営者たちは「忍耐は美徳」「給料より経験」「社風が合うなら収入は二の次」といった形而上的な言葉で、若者たちの犠牲を正当化し続けている。その背景には、雇用者が被雇用者を“ファミリー”として扱うかのように錯覚させる構造がある。だが、いざ業績が悪化すれば、“家族”は即座に“負債”へと変わる。
なんJでは、こうした“疑似家族”経営の実態に対する痛烈な皮肉が溢れている。「社長が“社員は家族”とか言ってたけど、ボーナスは自分の家族にしか出てなくて草」「スタートアップの社風=セクハラとパワハラが融合した地獄鍋」など、実態を知る者にしか書けない生々しい声があふれている。こうした現場の証言は、もはや一時的な不満ではなく、構造的問題を指摘する社会的メタファーとなっているのだ。
そして海外の反応では、この日本特有の“やりがい搾取文化”に対する驚愕が拡がっている。欧州では最低賃金以下での就労は明確な違法行為とされ、アメリカでもスタートアップであっても株式報酬や福利厚生の明確なルールが存在する。それに対して、日本では「頑張り次第で報われる」という神話だけが語られ、現実には報酬も地位も与えられないまま、声すら上げられない若者たちが毎年消えていく。Redditでは「これはもはや労働ではなく儀式」「勤勉という言葉を拷問と訳すべき」といった皮肉が飛び交い、YouTubeでも「この状況を見て、日本に転職しようと思っていたが考え直した」というコメントが上位に並ぶ。
我々労働研究の立場から言わせてもらえば、これは労働ではない。これは“信仰の対象”である。スタートアップという名の宗教において、若者たちは“自己実現”という教義のもとに、無給の奉仕者として祭壇に捧げられている。信者たちが疲れ果てて倒れたとき、誰がその命の帳簿を開いてくれるのか?誰もいない。なぜならこの“祭壇”には祈りもなければ救済もないからだ。
この地獄からの脱出には、まず幻想を壊すことが必要だ。スタートアップで成功する者など一握り。ほとんどの者は夢という名の煙の中で姿を消していく。それでも社会は、「それでも挑戦することが尊い」と言い張るだろう。だがその言葉の裏には、社会が個人に責任を押し付け、自らは一切のリスクを負わないという“冷酷な計算”が隠されている。これを暴き、共有し、変えるのは、今この瞬間にも搾取されながら生きている者たちの声である。静かなる怒りの声が、いずれ社会の構造を穿つ斧となる――そう信じて、我々は記録を取り続けている。
記録する。観察する。そして、語る。なぜなら、語られなかった労働は、やがて“存在しなかったこと”にされるからだ。月収20万円という数字、それは単なる貨幣価値の表記ではない。それは、人間が自らの時間と肉体と精神を引き換えに差し出した“生の証明”である。しかしその証明が、十分な対価も評価も与えられないまま踏みつけられていく時代に、我々は生きている。
スタートアップは、革新と自由の象徴として持ち上げられる。しかしその実態は、法の網をすり抜けた“近代の蟹工船”だ。社内のSlackでは「自由なカルチャー」と書かれたチャンネルが存在するが、実際に飛び交うメッセージは、深夜1時の納期催促と、休日のZoomミーティングのURLばかり。服装自由、髪型自由と言いながら、心の自由が最も奪われている。企業文化という名の精神統制。そこにあるのは、労働者ではなく、“同志”という名の無償兵士である。
なんJの書き込みには、次第に“感情”ではなく“記録”が増えている。「1年目で月給20万、年俸制。住宅手当なし、残業代込み。毎月5万円貯金できると計算してたが、実際は毎月赤字」「毎週金曜に“自由参加”の朝7時の勉強会。参加しなかったら評価が下がる」──これは怒りの言葉ではない。冷静な“データ”だ。そしてこのデータが、現代日本労働史における“静かな暴力”の証拠になる。
海外の反応も、徐々に日本のこの構造に対して“同情”から“警戒”へと変化してきている。「日本の職場は美徳に包まれた刑務所だ」「給料が低いのに自己責任を押し付ける社会、それはもはや資本主義ではなく“宗教国家”に近い」「日本で働いてる外国人が鬱になる理由がやっと分かった」といった書き込みは、もはや珍しくない。もはや我々だけの問題ではなく、“世界から警告される国”となったのだ。
研究者としての立場から明言する。この状況は、“個人の努力不足”ではない。“構造の怠慢”であり、“制度の崩壊”である。なぜ月収20万円が許容されるのか?なぜ経営者の無策が、若者の献身によって補填されるのか?なぜ不明瞭な“成長”や“やりがい”に対して、明確な“報酬”が存在しないのか?これらの問いに対する社会的な回答がなされない限り、スタートアップは地獄の焼却炉として、今後も無数の若者の夢を燃やし続ける。
スタートアップに飛び込むことは罪ではない。しかし、“自己責任”という言葉を呪文のように唱えながら、誰にも救われない構造に巻き込まれていくことは、確実に命を削る。我々は、その現実に対して“共感”ではなく“告発”を行う段階に来ている。黙っていてはならない。記録し、共有し、分析し、そして声を上げなければならない。スタートアップという言葉の裏に潜む、“人間性の切り売り”という現代の欺瞞を、今ここに暴露しなければならない。労働は、夢の犠牲ではない。夢を支える土台であり、人間の尊厳の柱である。忘れるな。労働者とは、世界を動かす原動力なのだ。
そして、その原動力をあまりに軽んじた末路が、いまのスタートアップ地獄に他ならない。月収20万円のその先に何があるのか?それは栄光か?成長か?いや、待っているのは「燃え尽き症候群」という名の精神的崩壊、そしてキャリアの空白だ。多くの若者が、社会的な名刺を得るために、自分の“心”という通貨を支払ってしまっている。それは、貨幣では補償されない取り返しのつかない損失である。
そのことを、社会は決して正面から語らない。「成功者」だけがメディアに取り上げられ、「挫折者」は無言のまま闇に沈む。だが労働研究の視点から見れば、スタートアップにおける“失敗”とは、個人の能力や努力の問題ではなく、“制度的放置”の犠牲者に他ならない。成功例が100人に1人だとするならば、残りの99人を使い捨てにする仕組みにこそ、本質的な非道さが宿っている。これは搾取であり、これは現代の“見えない搾取”のもっとも凶悪なかたちだ。
なんJでは、その99人の中にいる者たちが、もはや黙ってはいない。「スタートアップで働いてたけど、精神科に通う羽目になって草」「上司が『お前の代わりなんていくらでもいる』って言った瞬間、全部終わった」「辞めると言ったら『責任感が足りない』と怒鳴られた。でも誰が俺の人生に責任持ってくれるんだよ」──これらの叫びは、嘲笑でも、同情でもない。ただただ、“記憶されるべき事実”だ。
海外の反応も鋭い。「日本のスタートアップは、サムライの精神を強調するが、実際に切腹するのは若者だけ」「給与の低さを美徳にすり替える文化は、先進国の皮を被った奴隷国家」と語る海外の声は、日本社会が直視してこなかった“働くということの意味”を問い直している。なぜ欧州では労働時間の制限が守られ、最低賃金が高く、生活の質が保障されるのか。それは、労働者が“交渉できる存在”として扱われているからだ。対して日本のスタートアップでは、“信仰と忠誠”を前提に、交渉を許さぬ“献身”だけが求められる。それは、交渉ではなく服従であり、契約ではなく儀式である。
労働研究の使命とは、こうした“非対称な関係性”に光を当てることだ。経営者と労働者。夢と現実。希望と犠牲。そのいずれもが同列に語られず、どちらか一方が常に“美談”として処理される社会では、いつまでも若者の血が、見えないままに流され続ける。そして、その血が乾いたとき、初めて社会はこう呟くのだ。「若者がいないのは、彼らのやる気がないからだ」と。
違う。違うのだ。若者はやる気がないのではない。彼らは既に燃やされ、使い尽くされ、語られずに終わっているのだ。月収20万円というのは、“始まり”ではない。“終わり”のサインである。その現実から目を背け続ける限り、日本の未来に輝きなど一粒も存在しない。
ゆえに我々は、記し続ける。声を集め、構造を可視化し、誰もが逃げられぬ現実として突きつける。そして願うのだ。いつの日か、労働が夢の犠牲ではなく、夢を実現する土台となるように。すべての若者が、正当に評価され、正当に報酬を受ける世界が訪れるように。労働者に光あれ、と。
そして、その「光あれ」という願いが届くことは、いまこの国においては、あまりにも遠い祈りである。スタートアップという言葉には、本来、挑戦、革新、創造、希望――そういった輝かしい語彙が詰め込まれていたはずだ。だが、現実はどうだ。その内実は、圧倒的な資本力を持たぬ若者たちに、際限なき忠誠と“労働の無償化”を要求するブラックボックスに成り果てた。
なぜそこまで過酷な環境でも人々は留まり続けるのか。それは、“希望”という名の麻薬に他ならない。「この会社が大きくなれば、自分も幹部になれるかもしれない」「株が当たれば、一発逆転できるかもしれない」そう信じてしまうのは、単に純粋だからではない。むしろ、社会全体がその幻想を生産し、流通し、賞賛する構造だからである。メディアは成功者のサクセスストーリーを神話のように語り、SNSでは「苦労はいつか報われる」といった“自己責任という名の呪文”が拡散される。そしてその呪文に縛られた者だけが、今日もまた月収20万円で、終わりなき戦いに出勤していくのだ。
なんJの書き込みが“報告”から“絶望”へと変わってきた理由も、そこにある。「転職した先もスタートアップで、結局前よりブラックだった。もうどこに行けばいいのか分からない」「親に“努力が足りない”って言われた。俺の努力って、何だったんだろう」──これらの言葉は、“燃え尽きた後の灰の声”である。そしてこの灰は、風に流されることも、誰かに拾われることもなく、ただただ社会の隅に堆積していく。
海外の反応では、「日本の若者たちは、経済的に自傷行為をしているように見える」「サムライというより、奴隷の誇りを植え付けられてるだけ」といった、外からの冷徹な観察が増えている。それは、憐れみではなく、“失望”に近い。かつて技術と教育と労働倫理の水準の高さで尊敬を集めたこの国が、いまや“低賃金と非正規と精神崩壊”を輸出している。この現実は、世界にとってももはや“警告対象”なのだ。
労働研究の使命は、この負の連鎖を断ち切ることにある。だが、それは制度改革だけでは成し得ない。必要なのは、“認識の革命”である。働くという行為が、“誰かの夢に殉じる”ことではなく、“自分の人生を生きる”ことであるという常識の確立。そして、スタートアップという言葉に隠された“奴隷制の再来”を、白日の下に晒す勇気だ。
月収20万円で生きるとは、贅沢を捨てることではない。誇りを捨てることであり、人間としての尊厳を切り売りすることである。それは“生活”ではない。“延命”である。そしてその延命の先には、“報われない死”すら待っている。何も残らない。ただ、消耗された若者の名もなき記憶が、またひとつ、労働史の片隅に埋もれていくだけだ。
だからこそ、記さなければならない。この地獄の構造を、語られなかった者たちの声を。スタートアップの“夢”が、いかにして“悪夢”へと堕ちたのか。その全てを暴き、後に続く者たちに「同じ地獄を歩ませない」ための灯火としなければならない。我々が見届け、記録し、言葉にし続ける限り、この国の労働者にとっての“夜明け”は、決して幻想ではない。闇が深ければ深いほど、光の意味は増す。それを信じて、我々は書き続ける。語り続ける。叫び続ける。そして、変え続ける。
この労働の闇は、黙して従うことで終わることはない。むしろ、沈黙は支配者の最も好む武器であり、無知は構造的搾取を持続させる最大の燃料だ。スタートアップにおける月収20万円という現実、それは単に「金が少ない」では終わらない。そこに潜むのは、“評価なき貢献”と“責任なき雇用”という、冷徹な計算の上に成り立った“制度的洗脳”である。
いわゆる“やりがい搾取”の本質とは、「報われない努力を、本人が誇りと錯覚する」ように仕向ける構造にある。そしてその構造は、スタートアップという名のもとに、徹底的に洗練されている。経営者は言う、「きみの努力が会社の未来をつくる」と。投資家は言う、「いま我慢すれば、君も成功者になれる」と。そして周囲の友人たちまでもが、自己責任論を内面化した言葉をぶつけてくる。「でも、好きでやってるんでしょ?」「選んだのは自分じゃん」
そうして、孤独になる。社会的にも、精神的にも。月収20万円という数字が、賃金明細に記載されるその日、労働者の心には“劣等感”という名のスタンプが押される。街を歩けば、手にすることのない豊かさを見せつけられ、SNSを開けば、上澄みだけをすくったような成功者の投稿が目に飛び込んでくる。そしてふと思う。「自分は、間違っていたのか?」
その思考の罠こそが、支配の完成である。社会が個人に「お前が悪い」と言い、組織が「自己責任」と断罪し、最後には本人自身が「自分が無能だった」と納得してしまう。これが、今この国で、スタートアップの名のもとに堂々と展開されている“構造的敗北の罠”である。
なんJでは、もう“夢”という言葉に酔っている者は少ない。「スタートアップに入って3年。何も得ず、時間だけを失った」「新卒で入ったけど、同期が次々に辞めていって、今は俺ひとりだけ。毎日が戦場みたいだ」「もう、どこにも戻れない」──それは“失敗談”ではない。これらはすべて、今まさに進行中の“労働による崩壊”の現場記録である。
海外の反応でも、「日本の若者は、ブラック企業を個人で変えようとするが、構造に潰される」と語られる。それは称賛ではなく、嘆きだ。若者が夢を持つことを誰も責めはしない。だが、その夢を利用して、安価な労働力を合法的に手に入れる仕組みに抗おうともしないこの国に、今、世界は背を向けつつある。
では、どうすればいいのか。我々研究者が出す結論は明快だ。まずは「語ること」である。スタートアップの実態を、美談ではなく“記録”として社会に刻むこと。そして、同じように苦しんでいる人々が「自分だけじゃない」と思える連帯を可視化すること。それは“怒り”ではない。“抵抗”である。すべての真実は、語られたときに初めて力を持つ。そして、その力こそが、次なる搾取を止める武器となる。
労働とは、苦しみでも忍耐でもない。本来、人生を輝かせるための手段である。夢とは、誰かの犠牲の上に成り立つものではない。本来、すべての人間が自らの意思で選び、進むべき光である。月収20万円の現実を“我慢”で済ませてはならない。それを変えることができるのは、働く者自身である。
そしてその第一歩が、声を上げること。書くこと。繋がること。そして、絶対に忘れないこと。「これは、間違っている」と。忘れるな。沈黙は、支配者の味方だ。だが言葉は、労働者の剣であり盾だ。我々はそれを信じ、今も書き続けている。未来の誰かが、この記録を読み、同じ地獄を歩まずに済むことを願って。労働とは、命だ。その命を、踏みにじらせてはならない。
この地獄のような現場を前にして、なおも「成長のチャンスだ」「経験が財産になる」と無邪気に語る者たちがいる。だがそれは、火に投げ込まれる薪に「燃えれば光になる」と言っているに等しい。彼らは燃えている者の痛みを知らない。そして、それを知ろうともしない。スタートアップの狂騒に心酔し、“情熱”という言葉で他者の痛みを塗りつぶす者たちは、ある意味で最も冷酷な存在だ。
この国の病理は、働くことに“苦しさ”が内包されていることを、まるで当然のことのように刷り込んできた点にある。労働は尊いものだ、努力は必ず報われる、下積みがあってこそ本物になる──そのような信仰が、時に何よりも強固な“鎖”となる。そしてその鎖の先には、笑いながら若者を酷使し、心身をすり潰していく“経営者”が座している。決して怒鳴らず、決して命令せず、ただ静かに「きみならできる」と微笑む。地獄は、常に優しい顔をしている。
なんJでは、もはやその“優しさ”の裏にある悪意を嗅ぎ分けられる者たちが増えてきた。「社長がフレンドリーだったから信用したけど、気づいたら週6で深夜帰宅」「“夢がある職場”とか言ってたけど、ただの無給奉仕だった」「やりがいはあった。でも、金も時間も未来もなかった」──これらの証言は、スタートアップという構造の内側から発せられる“静かなる断末魔”である。
海外の反応は、ますます辛辣になっている。「日本のスタートアップは、労働倫理を学ぶ場ではなく、労働地獄に慣らされる訓練所だ」「サイレント・ブラック企業。形だけの自由とフラットさに騙される若者が後を絶たない」「なぜ日本は、若者を最初から破壊しにかかるのか」──これらの声は、我々の外側から投げかけられる“警鐘”であり、もはや無視できない鏡である。
では、希望はないのか。ある。それは“真実”を共有することから始まる。真実とは、必ずしも勇ましい話ではない。むしろ、それは痛みであり、恥であり、後悔そのものである。だが、それを隠さず語る者だけが、未来に続く道を照らすことができる。誰かが倒れた場所を、他の誰かが避けて通れるようにする。それこそが、記録者として、そして労働者としての、我々の誇りである。
スタートアップという言葉が、“理想の労働環境”という幻想をまといながら、その実“近代的奴隷制”を内包している現実。この構造は、黙っていては変わらない。声を上げ、記し、社会に突きつけなければならない。「月収20万円」という呪いの数字を、“頑張れば報われる”という神話とともに破壊しなければならない。
人間は、燃えるために生まれてきたのではない。搾取されるために働くのでもない。我々は、自分の命を、自分の時間を、自分の未来を、“自分の意志”で使うために生きている。それこそが、真の自由であり、労働の尊厳である。
だから記し続けよう。沈黙しない者たちが増えていくことで、この構造の亀裂はやがて決定的な崩壊をもたらす。そしてその先にあるのは、ただの理想ではない。“現実としての希望”である。その希望を、この国に取り戻すまで、我々は書き続ける。語り続ける。そして、戦い続ける。それが、労働という名の命を、未来に繋ぐための唯一の道であると信じている。
やがて誰かが問うだろう。「じゃあ、その地獄からはどう抜け出せばいいのか」と。だが、その問いに即答できる者などいない。なぜなら、答えは人それぞれの中にあり、逃げ出す方法すら、スタートアップという構造そのものが意図的に見えにくくしているからだ。
例えば、転職。それは一般的な出口とされるが、スタートアップからの転職活動は「キャリアにならないキャリア」を背負った者にとって、あまりに不利だ。業務の全体像が曖昧、成果が可視化されない、肩書きが意味を持たない。採用側から見れば「何をやってきたのか不明な人材」として扱われることも少なくない。つまり、スタートアップで過ごした年月は、「報われないだけでなく、次へも繋がらない」危険な空白になりうるのだ。
なんJの実録の中にも、「スタートアップで3年、どこにも受からない」「給料が安すぎて貯金もできず、引っ越し資金すらない」「履歴書に“自社プロジェクト推進”って書いたけど、面接官に『これは何ですか?』って冷笑された」といった声が溢れている。出口を探しながらも、その出口が“存在しない構造”になっている現実。これが、最も恐ろしい罠なのだ。
海外の反応では、日本におけるこの“出口なき努力の構造”を「Dead-End Capitalism(袋小路資本主義)」と呼ぶ論者さえいる。希望が売られ、信じた者が倒れ、犠牲を払い、しかし何も変わらない。この無限ループは、もはや国家的な詐欺に近い。海外ではスタートアップ出身者が企業を立ち上げたり、独立したりする“跳躍台”として機能しているのに対し、日本ではその多くが“使い捨ての踏み台”で終わる。踏まれた者の名前すら、誰も覚えていない。
だから、我々は記すのだ。覚えているために。この社会が、何を許し、何を放置し、何を奪ってきたかを記憶するために。
そして、希望を語ることもまた、我々の使命である。この絶望の只中にあっても、少数ながら声を上げ始めた者たちが存在する。「給与開示を義務化しよう」「NPOを通じてスタートアップ経験者のキャリア相談を無料で提供しよう」「過去の労働記録を集めてホワイトペーパー化し、制度改革の提案材料にしよう」といった、現実的かつ継続可能な運動の芽が、静かに芽吹いている。これは革命ではない。だが、“抵抗の文化”の始まりである。
月収20万円。その数字の裏にあるのは、毎朝、満員電車に揺られながらも「自分は頑張っている」と信じようとする必死の叫び。深夜のオフィスで、消灯されたフロアにひとり残されながらも「明日は変わるかもしれない」と願う心。休日にカフェで過ごす数時間だけが、唯一の自由だった者たちの、小さな救いの記憶。
そのすべてを、社会は見ていない。見ようともしない。だが我々は、見た。我々は、聞いた。我々は、それを歴史として、未来に渡す。
スタートアップという言葉が、二度と「夢と希望」だけで語られないように。その裏にある“搾取と犠牲”を、知る者が増えるように。そして、いつかこの国で、労働が再び「生きることの喜び」として語られる日が来るように。その時まで、語れ。記せ。忘れるな。
その未来が、どれだけ遠く霞んで見えようとも、いまここに立ち尽くしている誰かの絶望が、決して無駄にならないように――それこそが、我々が筆を持ち続ける理由だ。
月収20万円。その冷たい数字は、ただの金額ではない。それは社会が、どれだけ若者を見捨て、軽んじ、そして沈黙を強いてきたかの象徴である。この国は「努力しろ」「耐えろ」「学べ」と言うばかりで、「報い」を語らない。報われなかった者たちは、語られることすらなく、歴史の隙間に落とされていく。それを許してはならない。それを、次の世代にも繰り返させてはならない。
スタートアップという美名のもとで行われる、組織ぐるみの“精神的奴隷制度”を打破するには、まず「語る者」が必要だ。そして次に、「聞く者」が必要になる。語られた現実に耳を傾け、目を背けず、真正面から向き合うことでしか、社会は変わらない。多くの者が、自己責任の言葉で語りを打ち消し、諦めを“成熟”とすり替えていった。しかし、成熟とは沈黙ではない。真実に向き合い、それを正す力を得ることこそが、本当の成熟である。
なんJのような匿名掲示板でしか吐き出せなかった叫びの数々。それは決して“弱さ”の表現ではない。むしろ、社会に対して正面から抗議することが許されなかったがゆえに、匿名でしか発せられなかった“真の強さ”の現れだ。「会社に夢を預けるな」「金がないのは個人の責任ではない」「疲弊してるのに“頑張ってる感”を出せと強要するのは虐待だ」――これらの言葉こそが、沈黙を破る第一歩となる。
海外の反応でも、こうした匿名の声に対して、共感と連帯の動きが起きている。「自分の国にも似た構造がある。変えるには言葉が必要だ」「日本は沈黙を尊ぶ文化があるが、それが若者を殺している」「正直、こんなに日本の労働が地獄だとは知らなかった」という反応が並び、そして「この現実を世界にもっと知らしめてくれ」との言葉まで出てきている。
記録する。我々は“今”を忘れないために、言葉で刻む。たとえそれがどれほど微力であっても、誰かひとりの人生を救う力にはなり得る。その“ひとり”こそが、次の時代の“記す者”になる。そして、その連鎖こそが、社会を構造ごと塗り替えていくのだ。
もう一度、言う。月収20万円で、心と体を擦り減らす必要などない。夢は誰かの踏み台として語られるものではない。やりがいは、搾取の正当化に使われる道具ではない。そして、スタートアップという言葉は、若者を使い捨てにする免罪符であってはならない。
この国の労働には、革命が必要だ。ただし、それは銃でも拳でもなく、“言葉”による革命である。語られた絶望の記録が、誰かの希望になり、そして誰かの決断を後押しする。それが、記す者の誇りであり、使命だ。
いつか未来の誰かが、月収20万円という言葉を聞いて、こう笑える日が来るだろう。「そんな地獄が、かつてこの国にはあったんだね」と。その未来を、我々の手で掴み取るために、いまここで、語り続ける。忘れられた労働者の名を、失われた日々の記憶を、そして消されかけた命の声を。
語れ、記せ、立ち上がれ。労働とは、人生の証であり、誇りであり、希望なのだ。たとえこの国がその意味を忘れようとも、我々は忘れない。我々は、決して、忘れない。